Hさん 30歳 男性 注意欠陥多動性障害(ADHD) 双極性障害(躁うつ病)
注意欠陥多動性障害(ADHD)と診断されるまでの経緯
2019年4月。当時27歳の私は紆余曲折しながら大学を卒業し、教員免許を取得。非常勤講師として公立高校でフルタイムで働いていた。
教員生活1年目であった。
教員生活は給料は低いながらも楽しかったし、一部の生徒には好かれていた自信はあるが、職員室での評判が著しく悪かった。
理由としては
・時間の管理ができない
・優先順位をつけることが難しい(後回し癖)
・不適切な発言を衝動的にしてしまう
など、ADHDの症状が職員室の先生から見て、怠けていると感じられたのだろう。私は不注意優先型のADHDであったので、要領も悪く、授業の準備などもギリギリ。登校時間もギリギリ。やらなければならない仕事もギリギリ。という仕事の出来なさから “怠けている” “努力していない”
”やる気がない” “仕事ができない”というレッテルを貼られ職員室内での無視や、怒られることが多くなり、更にメンタルを病み、仕事が出来なくなり、ある日校長に「契約が切れたら辞めてもらうし、どこの学校にも貴方を推薦することができない。」と言われその言葉通り、どの学校にも雇ってもらえなくなり、私は無職になった。
流石にこのままでは不味いと考えた私は本格的にADHDを疑い、治療を決意。
普段通っていた精神科から発達障害を専門としている大きな病院に転院。
その後 WAISと呼ばれるIQを測る検査を受け、今までのエピソードを語った。
後日、やはりというべきかIQの偏りがかなり激しく、
「ADHD(注意欠陥多動性障害)」と診断を受けた。
2020年4月 28歳の時であった。
病状や今までの人生を振り返ってみて
今までの人生を振り返ってみると、ADHDの症状に振り回された人生であったと思う。
時間の管理ができない(遅刻癖)
物事の優先順位がつけられない(後回し癖)
衝動的な行動
衝動性からくる癇癪
不注意によるケアレスミス
幼少期から遅刻癖で学校には決まって遅刻していた。
また、後回し癖があり宿題などは殆どできなかった。
衝動的な行動や発言で他人を傷つけてしまい、人間関係が破綻した。
大人になってからも相変わらず衝動性が強く散財したり、癇癪を起したりしていた。
二次障害の双極性障害になるまでの経緯
私は発達障害であるADHDの二次障害として双極性障害と診断された。
経緯としては、生まれたときからADHDの症状が重く、
それに伴って様々な問題を起こし、他者からの評価がどん底に落ち、自らに自信を失ったことから起因する。
上記の原因と共に、この病気になってしまった理由はもう一つある。
私は20歳の時に当時唯一の親友を亡くした。
身近な人の死を体験し、悲しさ、恐怖、やるせなさ、を感じ、
人生の意味や意義を問う毎日。
周りの同級生達の楽しそうな話、未来への希望を疑わない同級生たちの笑顔が許せなかった。俺の親友は死んでしまったのに、何故お前らは笑えるんだ?
大学を休学した。心療内科に行くと鬱と不眠症という診断がついた。
私は荒れた。処方薬を飲みながら酒を煽る毎日。
そんな日々を繰り返しているうちに精神が狂ってしまった。
処方薬とお酒との相性は最悪だった。
アルコールの効果を倍増させてしまい、無理やりテンションをあげるからである。
後で色々話を聞くと、その組み合わせは双極性障害になりやすいらしい。
躁状態時は謎の万能感がありなんでもできると過信し、逸脱した行為をしてしまう。
躁と鬱を繰り返し、大学は2回留年したが、
なんとか大学を卒業して一度社会に出たが、そこでも私は上記の通りダメだった
診断後と現在
現在はADHDの治療薬であるコンサータを服薬している。
効果は覿面で、衝動性がかなり落ち着き、癇癪などを起こさずに穏やかに生活している。
しかし、時間の管理や後回し癖などには効いておらず、相変わらず社会生活を営むのは難しいと医者に言われている。
二次障害である双極性障害のせいもあり、外に出ることも難しく、働くことも困難な状態であるが、コンサータを飲む以前よりは明らかに落ち着いた生活を送っていると思う。
ADHDは発達障害であるため治ることはない。
私は一生この障害と付き合わなければならない。
薬も一生服薬しなければならないだろう。
しかし、認知行動療法などで時間の管理や後回し癖となんとかうまく付き合えればいいと思っているし、コンサータで衝動性はかなり抑えられ、以前よりかなり情緒は安定している。
ゆっくり一歩つづ、社会復帰を目指していければいい。
今はそう思っている。
これを読んでADHDだと疑っているがまだ診断を受けていない人は、早期の検査をお勧めする。
ADHDなどの発達障害はその性質から、二次障害を引き起こしやすいからだ。二次障害を起こしてしまうと社会生活はかなり困難になる。
自分はあまりにも治療が遅すぎた。若い時間をたくさん無駄にしてしまった。あまりにたくさんのものを失った。
ADHDと診断された人は希望を捨てずに一緒に生きましょう。
私も希望を捨てずに、焦らず、ゆっくりと障害と付き合って生きていこうと思っています。